すまふくマガジン

寺尾仁志について 〜音楽との出会い〜

更新日 : 2021.12.07

みなさんお元気でしょうか?
なかなか大変な状況が続いていますが
是非歌う事で様々な環境の人々とつながりあなたの世界を広げませんか?
コラム第2回目は〝歌で世界がつながる、歌で世界が広がる〟それを実現させようとしている今の寺尾仁志に至るまでをお伝えしたいと思います

幼少期で出会った音楽

9歳の時、何気なく入ったどヤンキーの長女の部屋で見つけた映画『グリース』のサウンドトラックのカセットテープ

なめ猫などのヤンキーグッズが散らかる中なぜか気になったそのカセットテープを聴いている中でドンドン引き込まれ気づけば自分の心がなんとも言えず熱くなっていました

僕が音楽に取り憑かれた瞬間です

そこからとにかくアメリカ、イギリス問わずいわゆる洋楽にハマって行き、それと同時に80年代にはMTVという番組とともにミュージックビデオと音楽が一つになってプロモーションする時代がやって来ました

ダリルホール&ジョンオーツ、WHAM、ポールヤング、ポリス…などなど当時のレンタルレコード屋さんに通いまくりでハマりまくっていました

今想い返してもブラックミュージックに影響を受けた白人シンガーいわゆる〝ブルーアイドソウル〈青い目のソウルシンガー〉〟が好きになる傾向にあったようです

中学生になった僕はさらに音楽にハマっていく中で初めて〝音楽を聴いて泣く〟という経験をします

今も大好きなアメリカのブラスロックバンド〝シカゴ〟の「Hard habit to break」
デビットフォスタープロデュースのこの曲、歌詞は槇原敬之の「もう恋なんてしない」みたいな内容の大失恋の歌

詞の内容など全くわからないし、わかっても共感などは無くただただこの曲の世界観に浸っていく中で涙が出て来たのです

歌は〝伝えるもの〟

と僕は据えています

その伝わり方は詞の内容から言葉を理解して心が動く場合と感覚的に心が動く場合とがあります

子どもの頃の僕はこの感覚で心動く経験を重ねて行きました

歌手なったええねん

高校生になった僕は勉強など全くする気もなく相変わらず洋楽に夢中な日々を送る中で、1つの夢が芽生えます

〝歌手になりたい〟

こんなにも心動かされる音楽、その音楽に言葉を乗せて表現する〝歌〟この歌を伝える側になりたい!歌手になりたいと思い始めるようになりました

きっかけはバンドブームに乗っかりバンドでボーカルを担当する事になった経験から

文化祭でパンクバンド〝SEX PISTOLS〟のカバーを演奏した時に担任の松林先生(40代の女性の先生、訛り有り)が「あんた歌上手いやん」
と褒めてくれたのもあったかもしれません

ただ寺尾家は父が障害を持つと同時に仕事を無くし家計は火の車家族5人〈父、母、姉2人と僕〉が食べていくのに必死、ハッキリいってド貧乏でした

家族からも「あんたは高校卒業したら1人で生きていってな」と言われていました

卒業したら大学に行く者、就職する者、専門学校へ行く者

まわりの友人たちの進路が決まっていく中で僕はアルバイトをしながら歌手を目指そうと思いながらもその想いは誰にも伝えられませんでした

当時歌手になるなんて夢のまた夢に感じ
恥ずかしくてとてもまわりに話せずにいたのです

そんな不安の中にいたある日の放課後
松林先生が突然僕を呼び出しこう話しかけたのです

「寺尾 あんた 歌手なったええねん」

えっ……(゚o゚;;

と、一瞬頭が真っ白になった後

「せ、先生アホちゃう!?そんなんなれるわけないやん!?」

と言葉を放ってすぐその場をそそくさと離れ、学校を出てなぜか走っていました
心臓がバクバクと高鳴り続けていました
そしてその高鳴りが落ち着いてくると同時に
なんとも言えない嬉しさが込み上げて来たのです

〝先生が見てくれていた、そしてその先生が夢を認め応援してくれた〟

僕が言葉のチカラを身をもって感じた初めての経験かもしれません
そしてこの言葉の力が今の環境へ僕を連れて来てくれたように感じるのです

その後メジャーデビューし31歳になった僕は松林先生に電話をします

その時の先生の驚きの返事はまた次回

《1月17日配信映像〝Program of human note〟
〜あの日から26年そして今〜》

https://youtu.be/lGEj83CRHdE

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